昭和四十五年七月五日 特別奉修委員に対する親先生の御講話


  今朝の御理解「慢心が出るとおかげを取りはずすぞ」という事。慢心が出るとおかげを頂きそこなうという意味で頂きましたがね、慢心が出るとおかげを取りはずすという事が何か人から先生と云われたり、分限者と云われたりするようなおかげを頂いてから落とすという事もありますけれども、私共が日々おかげを受けたいと願わして頂いておるものが、やはり慢心が出ると神様が下さろうとしておるおかげを取りはずすという事、と今日はそういう意味で頂きました、ね。
 ところがなかなかね、それがどういう事かというと実意丁寧神信心だという事になる訳なんですよね。実意丁寧神信心という事を本気になったら慢心の出ようがない訳ですよね。そこで、しかしなかなか今日一日それに取り組ませて頂こうとみんなに云ったものの、大変難しい事だなと、もう全ての事にですから下駄ひとつ履かせて頂くにでも実意丁寧を持って、人にもの云わして頂くでもそこに実意丁寧をはずしたものがあってはならないし、同時に神信心という事は、今日の御理解で頂きますと真の信心という事。「信心する人の真の信心なき事」とおっしゃるが、信心はたくさん知っとるけど真の信心を目指して「真の信心とは、真の信心とは」と、いつも心にかけさせて頂いて信心を進めておる人が少ないという事ですね。ですからお道の信心で真の信心というたら、やはり実意丁寧を貫く事だろうと思いますけれども、ところがなかなかそれが身についてしまうというまでは大変な事だと思うですね。そしたら、只今、その事を今朝から有り難い御理解を頂いて本当にその事が行じられるおかげを頂かしてもらう事をお願いさしてもらいよったら『れんこんの節のところ』を頂くんですね。ですからね、只今修行中という人たいの、これだけはどうでもおかげ頂かなならんと、特別な修行しておる人たい、ね、そういう人だけは出来るですね。本気になっとる。やっぱおかげをある意味でやれやれといったようなとこがなからな出来る事じゃないけれど、まあ云うなら私共な修行中の時分の事を思うてみると、それこそ汚い物と汚い物の間に挟まっとる米粒をですね、神様がこうよりのけて、これを拾えと神様がおっしゃったですよ。そりゃもう本当にあの時分こそ実意丁寧神信心を神様は私に強要しておられたと思う。強要されるとですね、それが出来る事が実に有り難かったです。これは、只今、修行中という看板かけておる時だったからなんですよね。ですから本当にどうでもおかげを受けなければならん、どうでもという例えば、特別な願いでも立てた時なら、出来ん事なか訳ですね。そして実意丁寧神信心というものがどんなに有り難いもんかという事をですね、やはり体験さしてもらわなければならない。
  夕べの御祈念の後にお話しした事でしたけれど、公子さんが朝方お夢を頂いた。頭が痛いからとか腹が痛いぐらいな事でね、そのそんくらいで、寝ちゃならんと、それが修行じゃという風な事を頂いたというです。難しい事ですよね。私共でも修行中に頭が痛い、腹が痛いこともなかったですね。本気で修行に取り組んどる時にゃ、もうそげなこつないです。ちった風邪気味かなと思う時でも、お水をいっぱいかかるような気持ちでおると、風邪で熱が出るなんて事ありゃしなかったです。これは本当に修行中な病気なんかしやしませんですよ。私共は今、いつも病気ばっかりしとるとは、もうやっぱぬけてしもうとるからです。これはもう本当、これは私の体験からそれを云えます。ですから、それでもちっと頭の痛かとか腹の痛かというならですね、あの、本当に自分がぬけておった事を、お詫びさしてもらわなきゃいけませんですね。それが当たり前のごと思うとったっちゃ修行はできん。まあそういう意味の事だと思うんですね。公子さん達の場合なんか今、修行中だという訳なんです。
  まあ私が昨日、公子さんに申しました事は、昨日、私一日体がきつうして一日休ませて頂いたが、ほんにどうしてこげんきつかじゃろうかとかね、寝とれば楽だからというようなもんではなくてですね、まあ今、夏期修行が始まっとる。夏期修行がその修行の先生がなくなって修行がなかなかできんか、神様がこげな修行をさして下さるという気持ちで寝たい訳です、ね、例えば寝るなら。楽をしようと思うて、又はそれが、「ああきつか、どうしてこげんきつかじゃろうか」というような思いからじゃなくてね、きつかけれども、それほどきつい神様が修行をさして頂きよると思うたらです、寝る事も又はその以外の事も修行としていけて下さっとんなる訳ですからね。まあおかげを頂いて私共がなかなか本気でそれこそ火の玉のような修行にもえておる時にはね、それこそ神様が「ああせろ、こうせろ」とおっしゃりゃ難しいと思うても出来ん事はない。もうやってのかせれる事が有り難い、そういうものが身についてしまう。身についてしまうから、いうならば丁度、「節」という時だったでしょうからね。その節をぬききったから、又スーッとこうおかげを頂いておる。また、だから節がきた時にはですね、「昔取ったきねづか」で、それこそまた本気で修行が出来る事ではないでしょうかね。ですから本当に「只今、修行中」どうでもこうでも、ここんとこをおかげ頂かなといったような思いの人はですね、やはり今日あたりの御理解を本気で取り組ませて頂いて、いわば水を漏らさんような実意丁寧神信心をね、貫かなきゃならんとこだと。「慢心を出すとおかげを取りはずす」とおっしゃるじゃけん、慢心が出るとおかげは取り逃がすのじゃけん、神様が下さろうとしとっても、だからどうでも頂かんならんというなら、本当に取り逃がさんごとですよ。実意丁寧神信心になるよりかないでしょうが。言葉遣いひとつから、どうもぞんざいである、する事なす事がどうも横柄であね。もう本当に、例えば下駄でんなんでん脱ぎ散らかすなんてんって事は出来るはずが無いです。実意丁寧のことを一生懸命の時にはですね、そういう事に取り組まして頂く事がやはり信心なんですけれどね、それが身についてしまえば、又楽じゃないでしょうかね。
    教祖様の御信心の、いわゆるあられ方という事を申しますが、教祖の信心の生きられ方とかあられ方を身につけるという事は、特別そういう時にでも身につけさしてもろうて、なる程、有り難いもんだという体験をつくっていかないけませんね。